サイト内検索はこちらから
「JR津山線はいいぞ」は、岡山と県北津山を結ぶ地方交通線。非電化で、気動車の走る路線です。私鉄の中国鉄道として開業後、国鉄・JRと120年を経て、里山の中を巡り続ける、地域公共交通と、都市間連絡を担う「JR津山線■」を中心に、発信(応援)するサイトです。
ご来訪いただき
ありがとうございます
スマホでは右下のアイコンをクリックし、ページを選んでください
乗って支える利用促進
『木次線利活用促進協議会』
さんのサイトへ
"キハ40系の色イロ"
地域色紹介のページへ
"亀”と"たまごかけご飯"の
美咲町の『観光情報』
サイトへ
“ゆず”と“カッピー”“川柳”の
久米南町の『観光・イベント』
サイトへ
メディアで紹介
テレビ東京『聞きこみ発見旅』
のサイトへ
"昭和を駆け抜けたDL"
DD51紹介のページへ
"あちこちの"
「観光列車 ラッピング列車」へ
掲載の「津山市」の写真については、津山 江見写真館さんから提供いただきました。【TADASHI EMI Photo Library】より。他に、「中鉄九十年の歩み」よりも中鉄バス様の了解をいただき転載しております。又、美作市、勝央町、美咲町(中央町)、久米南町、及び真庭市在住の方から、提供いただきました。写真の題は、原画によります。コメントはつけさせていただきましたが、ご指導頂ければ、幸甚です。尚、「目で見る美作の100年」は郷土出版社より2000年に発刊されました。
鶴山天守閣
撮影時期は記載されておりませんが,明治8年には取り壊されたとあります。(津山市史)。津山城は日本三大平山城で、櫓の数は、広島城や姫路城を凌いでいた様です(wikipedia)
昭和11年の姫津線開通記念博覧会時に、模擬天守閣が建てられたとあり、昭和12年撮影の写真には、天守閣が写っています。築城400年を記念して、備中櫓が再建されています。【TADASHI EMI Photo Library】より。
中國鐡道の開業
明治31年津山(今の津山口)、岡山市間に、鉄道が開業し、2時間半での移動を可能としました。人、物の流通手段もそれまで主流だった高瀬舟から、鉄道へと移動していきました。鉄道が、現在の津山駅まで伸びるのは、省線である作備線の支線として、津山、津山口(当初の津山駅)が開通する大正12年まで待たねばなりません。バスの運行は、大正の後年多くの個人事業者がたちあげ、幾たびかの買収・合併を繰り返し、昭和14年の中國鐡道と山陽自動車の合併により、鐡道・バス兼業会社となり、昭和18年に県内が6分割され、さらに統制令により中鉄バスの路線網が形成されました。
「中鉄九十年の歩み」より
撮影者不詳
相撲興業
大正末期、作陽学園付近より撮影とあります。宮川が吉井川に合流する、現在は、53号が走っているところです。白い尖塔を持つ建物は津山基督教図書館でしょうか。白い煙があがっている場所は、当時津山の産業であった、製紙か、製糸の工場でしょうか?鶴山には、天守閣の存在は認められません。相撲興業には、近郷近在から多くの人をあつめたであろうことが推測されます。
【TADASHI EMI Photo Library】より
津山高女運動会
津山高女運動会(昭和12年)とあります。山下校舎ですね。ここで、注目は、鶴山に聳える天守閣です。これは先の項目で述べた様に、昭和11年の産業博覧会に際して建てられた模擬天守閣のようです。この天守閣も戦争が激化した昭和20年には、空襲の目標になるとして、取り壊されました。【TADASHI EMI Photo Library】より
御神輿
昭和初期・京町交差点付近とあります。お祭りは,今も賑やかですが、当時はもっと特別なものであったような気がします。紋付はかま、シルクハットの紳士、帽子被ったモダンな女性。担ぎ手に寄り添う制服姿の人は警察官でしょうか。多くの人出が見て取れます。店の看板も当時の姿を映し出しています。【TADASHI EMI Photo Library】より