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みまさかの100年+α(写真集)

掲載の「津山市」の写真については、津山 江見写真館さんから提供いただきました。【TADASHI EMI Photo Library】より。他に、「中鉄九十年の歩み」よりも中鉄バス様の了解をいただき転載しております。又、美作市、勝央町、美咲町(中央町)、久米南町、及び真庭市在住の方から、提供いただきました。写真の題は、原画によります。コメントはつけさせていただきましたが、ご指導頂ければ、幸甚です。尚、「目で見る美作の100年」は郷土出版社より2000年に発刊されました。

津山市編

鶴山天守閣

撮影時期は記載されておりませんが,明治8年には取り壊されたとあります。(津山市史)。津山城は日本三大平山城で、櫓の数は、広島城や姫路城を凌いでいた様です(wikipedia)

昭和11年の姫津線開通記念博覧会時に、模擬天守閣が建てられたとあり、昭和12年撮影の写真には、天守閣が写っています。築城400年を記念して、備中櫓が再建されています。【TADASHI EMI Photo Library】より。

中国鉄道の列車

中國鐡道の開業

明治31年津山(今の津山口)、岡山市間に、鉄道が開業し、2時間半での移動を可能としました。人、物の流通手段もそれまで主流だった高瀬舟から、鉄道へと移動していきました。鉄道が、現在の津山駅まで伸びるのは、省線である作備線の支線として、津山、津山口(当初の津山駅)が開通する大正12年まで待たねばなりません。バスの運行は、大正の後年多くの個人事業者がたちあげ、幾たびかの買収・合併を繰り返し、昭和14年の中國鐡道と山陽自動車の合併により、鐡道・バス兼業会社となり、昭和18年に県内が6分割され、さらに統制令により中鉄バスの路線網が形成されました。

「中鉄九十年の歩み」より

​撮影者不詳

御神輿 昭和初期 京町

相撲興業

大正末期、作陽学園付近より撮影とあります。宮川が吉井川に合流する、現在は、53号が走っているところです。白い尖塔を持つ建物は津山基督教図書館でしょうか。白い煙があがっている場所は、当時津山の産業であった、製紙か、製糸の工場でしょうか?鶴山には、天守閣の存在は認められません。相撲興業には、近郷近在から多くの人をあつめたであろうことが推測されます。

【TADASHI EMI Photo Library】より

津山高女運動会

津山高女運動会(昭和12年)とあります。山下校舎ですね。ここで、注目は、鶴山に聳える天守閣です。これは先の項目で述べた様に、昭和11年の産業博覧会に際して建てられた模擬天守閣のようです。この天守閣も戦争が激化した昭和20年には、空襲の目標になるとして、取り壊されました。【TADASHI EMI Photo Library】より

御神輿

昭和初期・京町交差点付近とあります。お祭りは,今も賑やかですが、当時はもっと特別なものであったような気がします。紋付はかま、シルクハットの紳士、帽子被ったモダンな女性。担ぎ手に寄り添う制服姿の人は警察官でしょうか。多くの人出が見て取れます。店の看板も当時の姿を映し出しています。【TADASHI EMI Photo Library】より

鶴山公園 昭和5年
津山駅 姫�新線ホーム
吉井川 夏模様
津山青バス本社

鶴山公園

昭和五年とあります。現在との差のあまり変わらない場所でしょうか?(天守閣はなくなりましたが)

【TADASHI EMI Photo Library】より

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この写真には、題・時期が記してないのですが、津山駅の(姫新線)ホームです。因美線開通以降の昭和10年でしょうか?2016/春のDC期間中津山駅の地下道の突き当り、改札に向けて、上がる階段の下に表示されました。今の作陽高校があるあたりに看板らしきものが立っています。【TADASHI EMI Photo Library】より

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この写真にも、題が記してないのですが、吉井川に飛び込む青年とでも・・・向うに見えるのは、今の「今津屋橋」でしょう。多くの人が行き交うのが見えます。

今の作陽高校があるあたりに看板らしきものが立っています。上の津山駅の写真にも写っています。【TADASHI EMI Photo Library】より

津山青バス本社

中國鐡道(山陽自動車)が買収する前の、津山青バスの本社。​行き先は、日本原・関本、久木・吉ヶ原、真加部等。当時は、個人の事業者等多くのバス事業者がいたことが中鐡九十年の歩みに書かれています。​「中鐡九十年の歩み」より撮影者不詳

山陽自動車津山営業所

山陽自動車津山営業所

中國鐡道が買収する前の、山陽自動車の津山乗降場です。奥津温泉行の案内表示が出ています。車庫の中の行き先表示は「岡山・・」と書いてあるような・・・。車庫上の路線図。誕生寺や油木の地名が表示されています。​「中鐡九十年の歩み」より。撮影者不詳。

扇形機関車庫と津山高女生

扇形津山機関車庫と津山高女生

機関車庫の見学で、シルクハットの紳士は先生でしょうか?蒸気機関車は8620という形で、昭和12年ですから、省線(今の、姫新線・因美線)を走っていたものと思います。【TADASHI EMI Photo Library】より

津商生軍事訓練

昭和13年、兼田橋とあります。第二次世界大戦時には、旧制中学、高女、師範学校、高等工業、農業等多くの学生が学徒動員として、水島の工場や、玉野の造船所等で、労働に従事していたと聞いています。【TADASHI EMI Photo Library】より

千人針

昭和14年、京町で千人針を縫う女性です。当時は、徴兵制があり。2年前には日中戦争勃発、真珠湾攻撃の2年前で、戦争の色がより濃くなっていく頃でしょうか?【TADASHI EMI Photo Library】より

千人針:多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念の手法、および出来上がったお守りのこと。武運長久、つまり兵士の戦場での幸運を祈る民間信仰(Wikipedia)

実科菜園

昭和14年、現在の美作高校北側,衆楽公園付近とあります。当時「津山実科高等女学校」呼ばれた学校の菜園で、実習としてあったのでしょうか。翌年には美作高等女学校と改称されています。元々は苫田郡(津山市)がつくった学校なんですね。(Wikipedia)【TADASHI EMI Photo Library】より

美作市編
週末やまのゆ 林野駅

林野駅に停車中の「週末やまのゆ」

美作町史写真編には、「昭和39年4月 昭和39年週末急行「やまのゆ号」(京都~勝山間)運行、この時林野駅で歓迎式が行われ、湯郷温泉客の増加が大いに期待されました。」とあります。当時の時刻表を扱ったサイトには、姫新線内では、勝山を出ると、津山、林野だけに停車した全車指定の列車だったとあります。このころは、津山線の「ひるぜん」、「砂丘」共準急でした。

〈写真提供 美作市教育委員会〉

≪昭和40年のダイヤ≫

中国勝山 13:02

津山   13:49 13:52

林野   14:14

姫路   15:50(だいせん併結)

​京都   18:06

楢原付近を行く姫新線SL

姫新線の蒸気機関車

美作町史写真編に、昭和40年頃楢原地区を「煙をはいて走る機関車」とあります。姫新線は、津山線と違いC58形機関車(テンダ形)が運行されていました。津山駅にも、「広島行」のサボ(行先標)を掲げた客車が留置されていました。

写真提供 美作市教育委員会

勝央町編

勝間田駅前の米の出荷

昭和33年。この頃は、米の増産が奨励され、「食管法」により政府買い入れ量が指示され、完納できない場合は処罰されたとあります。勝間田駅前には大きな倉庫があり、郡部から大八車で搬入していた。津山線の駅にも、農業倉庫がありました。

写真提供 勝央町(了解いただきました) 

美咲(中央)町編
小原駅開業

小原駅開業

昭和30年、待望の中央町2番目の駅、小原駅が開業。全額地元出資の請願駅です。蒸気機関車牽引列車は通過していました。

写真 中央町史(当時)

昭和60年の亀甲駅

亀甲駅(昭和60年頃)

昭和57年のCTC(自動閉塞)化後で、転轍機操作梃子も撤去され、線路を渡る階段も埋められて、跨線橋も設けられている。車両も現在の40系の様である。業務委託の職員による集札も行われている。駅舎は旧来のもの。写真:中央町30年史         

小原駅開業
久米南町編
久米南町SL

川柳の町の標語と蒸気機関車

戦後の久米南町の文化運動として川柳が盛んになった。地域の行政にも協力する為、町内各所に川柳による標語がたてられ、津山線の踏切10ケ所にも事故防止の川柳看板が設置された。とある。下弓削昭和36年

写真提供 久米南町※撮影者は叔父でした。             

夏の神目駅

夏の神目駅と田園風景

いつ頃の撮影かは不詳ですが、駅に信号機がないので、交換設備が撤去された後と思われます。枕木が積み重ねられているような情景も見て取れます。写真提供 久米南町

真庭市編
旭川の高瀬舟
旭川最後の高瀬舟

旭川の高瀬舟

明治38年、日露戦争当時の、落合垂水の家並と高瀬舟です。

軍用の大麦の輸送と記した資料もあります。まだ、作備線はできておらず、県南への輸送は、福渡までは、高瀬舟に頼らなければなりませんでした。貨物の場合、積換えの手間を考えれば、岡山迄舟だったかもしれません。落合町垂水(当時)提供・真庭遺産研究会

旭川最後の高瀬舟

昭和5年、落合橋近くの街裏の景色とあります。大正13年、作備線(姫新線)美作落合ができ、荷の輸送が鉄道に移行し、それまで、福渡まで送られていた高瀬舟の荷も激減したということです。落合町垂水(当時)撮影:薬師寺稔氏

(ご遺族に了解いただきました)

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