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「JR津山線はいいぞ」は、岡山と県北津山を結ぶ地方交通線。非電化で、気動車の走る路線です。私鉄の中国鉄道として開業後、国鉄・JRと120年を経て、里山の中を巡り続ける、地域公共交通と、都市間連絡を担う「JR津山線■」を中心に、発信(応援)するサイトです。
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2020/8/26訂補
県北と県南、さらに内海航路を介して、岡山や京阪神への流通は、江戸時代に盛んになった、河川を上下する高瀬舟が担っていた。
※高瀬舟:浅海を航行するする為の木造船で、中世には船体が小さく、底が深かったが、近世には、船体が大きくなり、底が平たく浅くなった。帆走もしくは、馬や人間が曳いて運行され、物資の輸送を主な目的としていた。
県下の三大河川では、室町時代末期頃から使用され始め、江戸時代を経て、昭和時代初期まで使用された。
◇旭川の高瀬舟:宇喜多秀家時代に開通。勝山~岡山京橋(65km)を運行。人も運んでいた。喫水の浅い、15m前後の木造船で、下りは1日、上りは5日程度を要していた。米、大豆、木炭等を積んで下り、塩、砂糖、石油等を積み上がった。落合は水量の関係で物流の主宰地、名物の羊羹は、吉備高原の小豆と下流からの砂糖によって生まれた名物。明治時代は、300隻余りが行き来したが、中国鉄道の開通で衰退がはじまり、作備線の開通や、洪水等により消滅。(中国整備局、「旭川の歴史・文化」参照)
◇吉井川の高瀬舟:中世から運航されていたようで、江戸時代に最盛期を迎える。慶長年間森忠政が津山に転封し、吉井川左岸に舟蔵や番所を設け、船頭町の整備を行った。江戸時代には、西大寺迄の72kmを下り2日、上り3~4日を要していた。積載能力は下り6t、上り1t。下りは、米、炭、瓦、鉄等、上りは、日用雑貨、海産物等であった。船数は、松平藩時代は、舟株を持つ者(船主)に高瀬舟の津山以南の運行が許され、津山舟(54)長岡(柵原:116)、田原(和気:16)計186隻が担っていた。倉安川の開削により岡山城下への輸送も可能になった。主な湊は、津山、林野、周匝、和気、西大寺、中でも津山は最大の基地。中国鉄道開通後は、柵原鉱山の鉱石運搬が主となった。
※高瀬舟の隻数は明治には増加、又津山以北運行分を含めると増える。
江戸時代:享保年間には、当時岡山藩領の高瀬舟が110艘、上流の他藩領分を加えると250艘前後が動いていたとある。又「美作略史」には、鳥取藩の援助で、勝山から上徳山への航路開発をてがけたとある。現に、鉄等を伯耆倉吉から下長田、湯本を経て、久世、勝山の河岸に人や牛馬により運ばれていたらしい。鉄は、砂鉄をもとにたたらで製鉄されていたのであろう。勝山から出る舟は水量の関係で少なく、落合からが本格的で、人も落合から乗ったらしい。落合町の記録では、元禄時代、垂水村に19、向津矢村に12、野原村に6、等計49艘であった。舟の往復は1週間で、下り舟は1日で岡山に着いた。福渡には番所が設けられていた。福渡は街道の渡し場もあり、水陸の要所で、奉行所もあった。とある。
明治時代:勝山~岡山の旭川水運の最盛期には400艘近い舟が上下し、その中間にある金川は高瀬舟が一泊するのによい位置であり、水運が金川の繁栄の一因であった。ところが、明治31年の中国鉄道の開通が、大きな変化をもたらす。岡山河岸の仲仕の数が明治42年頃には、半減したという。高瀬舟の数も半数近くになったろうし、金川河岸も同様な状況であったと推測される。明治36年の金川駅貨物状況には、移出:米3,400石、麦400石、茶7,500斤、薪35,000貫、炭25,000貫、材木6,400。移入:生魚9,000斤、石油1,180函、肥料42,600貫等とあります。これらが、高瀬舟から鉄道に移ったのであろう。※石:180L(1人の年間消費量)、斤:600g、貫:3.75kg、函:36L [御津町史等参照]
旭川の高瀬舟
国道交通省岡山河川事務所提供
川舟つなぎ止め石跡
八幡の渡しの岸(福渡、旭川橋梁の建部方)
落合垂水の家並と旭川の高瀬舟(明治38年)
日露戦争に際し、軍用の大麦を積んだ高瀬舟と記したものもあります。出典:真庭遺産研究会
旭川最後の高瀬舟(落合・垂水 昭和5年)
藥師寺稔氏撮影 ご遺族に了解いただきました。
江戸時代:吉井川(明治以降の名称)での高瀬舟は中世より行われ、長岡庄の塚角、栗子、備前の田原、金岡等が開発された。その後、水運に見識を持つ森候の転封を機に一層の発展を見る。高瀬舟稼ぎをゆるされた舟株をもつ、船主にのみ、津山の船頭町での荷積み、荷下し、津山より下流への輸送ができた。津山舟(小桁、八出、金谷):54艘、長岡舟(押渕、塚角、大戸、栗子、久木、藤原):116艘、田原舟(備前田原上・下):16艘で総数186艘であった。この他、津山より上流に航行する高瀬舟もあり総数はさらに多い。
明治時代:藩による管理がなくなり、備前田原舟以外に209艘に上ったとある。そして、明治31年の中国鉄道の開通により、高瀬舟の輸送をとってかわり、柵原鉱山の鉱石輸送に重点がうつり、明治末期には、鉱石運搬120艘、津山へ出入りする舟は40艘、その他、30艘であった。とある。[津山市史 第3巻、第4巻、第5巻]
写真提供:柵原鉱山資料館
吉井川と和気橋
和気町歴史民俗資料館所蔵
井堰を上る高瀬舟
写真提供:美咲町柵原鉱山資料館
写真は、自ら撮影したか、撮影者からの提供いただくか、出版物については、出版社を通じて、写真の撮影者等に確認しておりますが、何かありましたら、ご連絡ください。