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「JR津山線はいいぞ」は、岡山と県北津山を結ぶ地方交通線。非電化で、気動車の走る路線です。私鉄の中国鉄道として開業後、国鉄・JRと120年を経て、里山の中を巡り続ける、地域公共交通と、都市間連絡を担う「JR津山線■」を中心に、発信(応援)するサイトです。
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◇画像をクリックすると拡大します。
「真庭遺産」さんに提供いただきました
吉井川で運行した舟の再現品
片鉄開通前は鉱石も運搬。津山~西大寺に物資を運んでいた。(柵原鉱山資料館)
旭川(落合・垂水)の高瀬舟
旭川の高瀬舟は水量の関係などで、落合から下流の交流が盛んであったようです。「落合羊羹」は高瀬舟交易の賜物です。
薬師寺稔氏撮影:ご遺族に了解いただきました
旭川最後の高瀬舟
中国鉄道開通後も福渡~落合を運行も、大正13年に落合へ作備線開通した為、福渡から落合の荷も激減。(昭和5年落合垂水)
津山往来について(岡山県立図書館 デジタル岡山大百科による)
津山往来の確かな記録が伝わるのは江戸時代になってからであり、それ以前の状況は、よくわかっていない。
津山往来の呼称は明治以降で、それまでは特に定まった名称はなく、岡山側からは、「作州往来」「作州道」、津山側からは「備前道」などと呼ばれていたようである。 江戸前期の地誌によれば、池田光政の入封以降、岡山から辛香峠までの道程が変更されたという。
江戸時代の往来は、金川から箕地峠〔みのぢとうげ〕を越え、建部陣屋に至りそこから八幡〔やわた〕の渡しをとおり、福渡に入り、さらに津山線や、53号線が大きく迂回する豊楽寺山の石引乢〔いしびきたお〕を越えて神目〔こうめ〕に至る道程であった。
ちなみに、箕地峠、八幡の渡し、石引乢は難所であった。
この難所を避け、平地を抜ける現在の国道53号線のルートが完成するのは明治20(1887)年であり、これに伴い津山往来は、県道(明治9(1876)年に指定)から国道に昇格する。
この路線の大幅な変更は、建部陣屋とともに街道筋にあった中田村の建部新町、上之町、下之町に対して、後の中国鉄道(現津山線)の開通とともに大きな影響を与えることになる。
山陽自動車バス
(後に中国鉄道と合併)の岡山~津山の乗合バス(シボレー1932年式)昭和12年「中鐡90年の歩み」より。撮影者不詳
木炭車作業
戦時中はガソリンが不足し、代用の木炭も消費規制される中、中鉄式薪瓦斯発生炉装備のフォード車(昭和18年頃)「中鐡90年の歩み」より。撮影者不詳
営業上の理由で傍系会社とした山陽自動車は、その後も県内の中小バス会社を合併し、さらに昭和14年に中国鉄道に合併
☚ここをクリック
さらに、戦時下の企業整備令により、9社を合併した結果、中鉄バスの路線網ができあがった。
この項、日本文教出版「岡山の交通」参照
岡山・津山特急バス
昭和39年から運転されていたが、53号の改良で90分運転が可能に!ワンマン化は実施済。昭和45年(津山市提供)
岡山~津山バス:2003年廃止
和田北行バス
路線バスの支線系も健在。和田北線。中高生の足。昭和60年(中央町30年史)
大垪和・和田北線は2004年廃止
中鉄バス路線図
昭和40年上段:津山以北、下段以南。クリックすると拡大します
「中鉄九十年の歩み」より
中国鉄道設立
明治25~30年頃
建設工事から開業まで
◇高瀬舟依存の南北交通改善、瀬戸内~山陰の連絡に鉄道敷設気運盛り上がる
◇明治24年:山陽鉄道により、県南部を貫通。
◇明治25年「鉄道敷設法」により、官設鉄道の計画が示されるも鉄道会議では東方線が 選定され、岡山~山陰は私鉄で敷設せざるをえなくなる。
◇中国鐡道設立・岡山~米子敷設申請し29年に免許下付。同年第一期として岡山~津山間の工事を開始。資本金500万円(現在の100億円)。中小株主多い構造。三井・三菱・藤田等大資本の山陽鉄道と異なる
当時、山陽と山陰を結ぶ3本の路線案の中で、中国鉄道線の優位性を説いている
『中国鉄道敷設理由書』(デジタル国会図書館)はこちらから
中國鐡道の構想
岡山から津山・勝山を経て米子を結ぶ計画で、一期工事として岡山~津山。
その後、その後資金難等で延伸断念。
中国線開業
吉備線開業
岡山駅へ延伸
明治37年 吉備線直通運転開始
◇工区を6に分け、第二工区の手立隧道で着工。第三工区箕地隧道で起工式
難工事と物価高騰で工事中断により建設費も当初の2倍272万円(岡山~米子402万円の68%、)⇒津山以北工事断念の原因
◇岡山駅乗り入れは、費用分担で折り合わず。跨線橋北に、岡山市駅設置。
◇明治31年11月岡山~津山接続。25日、報道陣を乗せて試運転列車が 両駅間を往復。その後、逓信省の成工検査合格。12月21日開業決定 山陽鉄道につぐ、中国地方2番目の鉄道としてスタートすることになる
写真使用可否調査中
11時4両編成の処女列車。山陽新報 では「途中、金川、福渡で1000人、弓削で300人の見物客が押し寄し 花火も打ち上げられ、大変な歓迎ぶり、津山はさらに盛大だっと」ある。 運賃(3等)52銭(高瀬舟の倍)、時間:2時間30分、 本数:4往復 運転本数については、臨時列車の設定、翌年2月から7往復化とある。駅は 岡山市-玉柏-野々口-金川-福渡-弓削-誕生寺-亀甲-津山(津山口)
開業時の機関車4号機
英、ナスミス・ウイルソン製タンク式蒸気機関車4両導入。(大橋一央氏撮影・湯口徹氏所蔵)画像クリック⇒大きな画像
経営順調だった大正時代
作備線の開業・津山駅へ延伸大正12年
◇岡山延伸後の明治43年の時刻表をみると、津山線の列車(混合列車と推測)5往復、貨物が1往復、福渡までの貨物1往復の内、3~4本は吉備線直通。この時期、吉備線は10往復の旅客列車が運転されている。中国鐡道は、客車収入が貨物の3倍、70%を占め、線別にみると、吉備線 は旅客主体、一方津山線は、貨物のウエートが高い。このように、中国鐡道の開通は、産業を発展させていた。又、明治40年には、客車をボギー式に 改造、又ボギー式客車を購入しカーブ走行性能をアップさせている。
明治34年に導入された8号機関車
米子延長を考えてか、60km未満の津山線には珍しい米ボールドウィン製のテンダ式(炭水車付き)。(大橋一央氏撮影・湯口徹氏所蔵)画像クリック⇒大きな画像
◇営業成績は、営業係数50~60と今では考えられない業績で、明治34年係数が80になった時には、社内改革を断行している。この時期の私鉄の平均的値である。又大正8年の輸送量は都市部の私鉄(東武、南海)等に伍して健闘。交通需要量ある程度有、競合交通機関ない為か。
昭和初期にもあったバスとの競争
神目駅開業昭和4年
ガソリンカー導入 昭和5年
・大正元年:牧山、大正12年:佐良山、昭和4年:神目の各駅開業。大正12年には、鉄道省の作備線(津山~追分)開業。現津山駅迄支線として延長。
◇岡山~津山バス路線:大正9年創業の津山の巴商会が運行開始し、山陽自動
車が買収し運行。昭和3年同区間は、バスが片道1円30銭、往復2円、1時間毎。鉄道は、1円70銭、6往復/日。自動車攻勢に、電化の検討もしたとか。結局、ガソリンカー導入と、往復割引運賃設定で決着。昭和11年には14往復/日と、2時間を切る所要時間を達成。昭和10年には、山陽バスを傘下に、14年に買収。5年間の鉄道・バス兼業時代を迎える。
中国鉄道は昭和5年気動車導入
当初の運用は吉備線で、津山線は昭和8年試行後に導入され、昭和11年には、岡山~津山2時間を切ったとある。昭和15年の時刻表でも、気動車は1時間40分台で結ぶ。写真は、昭和11年導入のキハ二181。津山線を走ったのか。
撮影:大橋一央氏
所蔵:湯口 徹氏
昭和9年室戸台風で旭川橋梁流出
昭和9年室戸台風により旭川橋梁流出。
復旧工事は、千葉の鐡道聯隊(400名)により、昼夜をわかたぬ作業の結果、およそ2か月半で、仮復旧し、列車が通過した。復旧工事中は、鉄橋の両岸に仮駅を設け、渡船を介して連絡。所要時間は40分。くわしくは、こちらを
室戸台風により流失した旭川橋梁(昭和9年)「江見写真館さん」提供
国有化:昭和19年
燃料統制で、ガソリンカーに、木炭瓦斯発生炉を取り付けた車両が走る(吉備線)
津山線は蒸気機関車牽引であったものと推察できる。
◇昭和19年、軍事重要路線として国有化
戦後、蒸気機関車から、復興を果たし、気動車急行で高度成長期を支えた津山線、モータリゼーションの進展、過疎化等厳しい環境の中、官民共に、マイレール意識を醸成することが望まれるのだが・・・。
戦後復興期
津山線小原駅開業
昭和31年町120万円と地元30万円の負担で実現。SL列車は通過していました。画像クリックで拡大画像へ(中央町(当時)提供)
津山機関区を見学する川上村徳田小児童(昭和30年代)昭和版「津山まなびの鉄道館」でしょうか?。(蒜山教育事務組合立川上小学校(当時):提供)
久米南町下弓削を行くC11
町内10ケ所の踏切に川柳の立札を設置、安全を呼掛けました。画像クリックで拡大画像へ。昭和36年(久米南町提供)
◇昭和29年時刻表(津山線・吉備線百年史)によるとキハ41500による岡山~福渡気動車列車あり
◇津山線に気動車列車が登場。昭和31年の時刻表では気動車10往復 ※ クリックして時刻表へ
気動車の活躍
気動車の登場で、本線でも気動車使用の優等列車が活躍(写真参照)。津山線でも昭和29年の時刻表では岡山~福渡で、気動車運行。昭和31年には10往復の気動車列車が設定されている。
気動車の活躍
優等列車登場
準急「砂丘」
昭和37年から宇野~鳥取で運行開始し。その後急行化、陰陽連絡を担うも平成7年廃止。昭和62年:キロハ平成4年:塗装変更
(中央町30年史)
無煙化・貨物列車廃止:昭和46~48年
津山線無煙化
津山線の無煙化は昭和46年3月。C11-80が5両牽引でラストラン。その後、ディーゼル機関車DE10で客車列車を牽引していたが、昭和57年7月全列車気動車化。現在は、工臨等で津山線を走っている。
SLラストラン(中央町30年史)
新幹線岡山へ
陰陽連絡線として砂丘増便昭和47~
■貨物列車
左の写真は、勝間田駅の農業倉庫の様子。駅毎に農業倉庫が設けられ、近郷から集荷された米は、保管後貨物列車で出荷されていた。駅は、旅客だけでなく、貨物でも活況を呈していた。
津山線の貨物列車
昭和27年:定期上下4本(内1本は混合列車)不定期1往復(C11牽引)
昭和32年:上下4本づつ。昭和27年をピークに減少傾向。昭和47年廃止
勝央町提供(昭和33年)
Topics
昭和47年7月、伯備線の水害により、「やくも」が、新見~津山~岡山の迂回運転により、津山線に入線
法界院~備前原(撮影:光野さん)
キハ40系導入
21m級の大形車。昭和53年から、47を先陣に導入が開始され。増備と共に、10系・20系は淘汰されていく。
合理化:無人駅、棒線化の拡大
CTC化(合理化) 昭和57年
概ね、10km毎交換駅設置。牧山は山肌を削り交換駅に。交換駅は法界院、牧山、金川、福渡、弓削、亀甲。(牧山、弓削、亀甲は発条式ポイントだったよう。) 一方、玉柏、野々口、建部は棒線化。閉塞区間と閉塞方式の変遷はこちらから
当時の亀甲駅:転轍機梃子が撤去され、跨線橋も設けられている。業務委託職員が、集札している。この頃の乗車人数450人。
昭和60年頃の亀甲駅(中央町30年史)
国鉄⇒JR西日本へ
昭和62年にJR西へ
JR
鉄道部制第一次実施分として、平成2年津山鉄道部が発足。姫新線上月~新見。
因美線東津山~智頭。津山線全線担当。一部ワンマン運転も開始。平成20年に支社直轄。
津山鉄道部発足
「砂丘」廃止と「つやま」の運行
キハ120:高速化で導入。現在2往復のみ
平成4年「津山線高速化促進期成同盟会」設立:平成7年~平成8年高速化事業(総事業費:20.5億:設備:12.5億(50%自治体、20%JR、30%民間募金)、車両:8億(10両分 JR)
①玉柏、野々口、建部交換設備設置(1線スルー)
②牧山、弓削、亀甲、1線スルー化
③踏切・信号関連装置、軌道4kmの改良・強化
④高性能気動車(キハ120)導入
陰陽連絡から都市間連絡へ
再び支社の直轄化
「ことぶき」用岡山快速色
平成9年に、急行「砂丘」廃止。急行「つやま」、快速「ことぶき」誕生:速ことぶきは、当初アイボリーに窓の周囲濃いグレーの330PS換装の専用車で運行。40系全車両SA6D125H-1型直噴エンジン330PSに換装、併せて40N体質改善工事実施。冷房化工事も、平成3年から、WAV202を設置。
平成12年:津山線、支社直轄化。因美・姫新線減便と保線工事による土日昼間運休の実施。平成23年には保線運休は廃止。
度重なる落石事故:玉柏~牧山で、平成17年には、回送列車、18年には、岡山行始発が、落石により脱線、乗客25名が負傷、4ケ月不通になった。落石検知装置の設置が推進されている
円形HMの急行「砂丘」
昭和37年宇野~鳥取で準急で運行開始、41年急行に、新幹線岡山延伸の47年から、3往復の設定。昭和60年には4往復に。62年にはキロハを連結。さらに平成元年からは、5往復に。
平成9年急行「砂丘」
平成4年から登場の「砂丘色」0系新幹線の座席転用したアコモ車。キロハ28を連結し陰陽連絡として、5往復設定。智頭急経由の特急「いなば」にその座を譲った後も、暫く急行「つやま」として運用。
急行「つやま」
平成15年48系に変更後、21年まで走った急行「つやま」快速と、時間、車両設備も共に、優位差がなく「遜色急行」と呼ばれた。写真は、黄/白の広島色車両。
以降については「津山線の“平成”を振り返る」をご覧ください。