top of page

サイト内検索はこちらから
「JR津山線はいいぞ」は、岡山と県北津山を結ぶ地方交通線。非電化で、気動車の走る路線です。私鉄の中国鉄道として開業後、国鉄・JRと120年を経て、里山の中を巡り続ける、地域公共交通と、都市間連絡を担う「JR津山線■」を中心に、発信(応援)するサイトです。
ご来訪いただき
ありがとうございます
スマホでは右下のアイコンをクリックし、ページを選んでください
乗って支える利用促進
『木次線利活用促進協議会』
さんのサイトへ
"キハ40系の色イロ"
地域色紹介のページへ
"亀”と"たまごかけご飯"の
美咲町の『観光情報』
サイトへ
“ゆず”と“カッピー”“川柳”の
久米南町の『観光・イベント』
サイトへ
メディアで紹介
テレビ東京『聞きこみ発見旅』
のサイトへ
"昭和を駆け抜けたDL"
DD51紹介のページへ

"あちこちの"
「観光列車 ラッピング列車」へ
写真は、自ら撮影したか、撮影者からの提供いただくか、出版物については、出版社を通じて、写真の撮影者等に確認しております。何かありましたら、ご連絡ください。
◇画像をクリックすると拡大します。

.jpg)
「真庭遺産」さんに提供いただきました
吉井川で運行した舟の再現品
片鉄開通前は鉱石も運搬。津山~西大寺に物資を運んでいた。(柵原鉱山資料館)
旭川(落合・垂水)の高瀬舟
旭川の高瀬舟は水量の関係などで、落合から下流の交流が盛んであったようです。「落合羊羹」は高瀬舟交易の賜物です。

薬師寺稔氏撮影:ご遺族に了解いただきました
旭川最後の高瀬舟
中国鉄道開通後も福渡~落合を運行も、大正13年に落合へ作備線開通した為、福渡から落合の荷も激減。(昭和5年落合垂水)

津山往来について(岡山県立図書館 デジタル岡山大百科による)
津山往来の確かな記録が伝わるのは江戸時代になってからであり、それ以前の状況は、よくわかっていない。
津山往来の呼称は明治以降で、それまでは特に定まった名称はなく、岡山側からは、「作州往来」「作州道」、津山側からは「備前道」などと呼ばれていたようである。 江戸前期の地誌によれば、池田光政の入封以降、岡山から辛香峠までの道程が変更されたという。
江戸時代の往来は、金川から箕地峠〔みのぢとうげ〕を越え、建部陣屋に至りそこから八幡〔やわた〕の渡しをとおり、福渡に入り、さらに津山線や、53号線が大きく迂回する豊楽寺山の石引乢〔いしびきたお〕を越えて神目〔こうめ〕に至る道程であった。
ちなみに、箕地峠、八幡の渡し、石引乢は難所であった。
この難所を避け、平地を抜ける現在の国道53号線のルートが完成するのは明治20(1887)年であり、これに伴い津山往来は、県道(明治9(1876)年に指定)から国道に昇格する。
この路線の大幅な変更は、建部陣屋とともに街道筋にあった中田村の建部新町、上之町、下之町に対して、後の中国鉄道(現津山線)の開通とともに大きな影響を与えることになる。
バス編

山陽自動車バス
(後に中国鉄道と合併)の岡山~津山の乗合バス(シボレー1932年式)昭和12年「中鐡90年の歩み」より。撮影者不詳

木炭車作業
戦時中はガソリンが不足し、代用の木炭も消費規制される中、中鉄式薪瓦斯発生炉装備のフォード車(昭和18年頃)「中鐡90年の歩み」より。撮影者不詳
営業上の理由で傍系会社とした山陽自動車は、その後も県内の中小バス会社を合併し、さらに昭和14年に中国鉄道に合併
☚ここをクリック
さらに、戦時下の企業整備令により、9社を合併した結果、中鉄バスの路線網ができあがった。
この項、日本文教出版「岡山の交通」参照



.jpg)
